2020年09月19日(土)
遺品整理、空き家片付け、こんな事をテーマにして、いろんな方のお家にお邪魔して作業をしています。 ホームページではいろんな事例も紹介しつつ、片付けの能書きなどもペラペラと語ります。 今回、自分の父の遺品整理、またそれに伴う大片付けを経験することになり、初めて気がついた事、感じた事、心の葛藤と、たくさん経験しました。 とりあえず結論を言うと、気持ちとして他人の片付けは簡単だけど身内の片付けはそうでなかった、という事を思い知ったのです。 私の田舎は能登半島(石川県の鍵みたいになってる所)にあります。 葬儀をして1週間ほど実家に残り、父親の部屋にあるもの、いろんな部屋に溜め込んだ物の整理、片付けを行いました。 実家は昔ながらのやたらと大きい家で10部屋以上あります。 母と父の2人暮らしで、空いたすべての部屋に何かしら物を置いてたり、放置してあるんです。 高かったであろう健康器具、壊れた家電、使わない座椅子、買ってきたままの服、大して使ってないのにゴミ状態になっていました。 息子の私からすると、とてもだらしなく見えますし、腹が立ちました。 しかしストレスで買い物にハマったのかなと思うと、普段からあまり連絡しなかった親に悪かったなーという悔しい感情もまた同時に起こるのです。 ゴミ状態になった物が個々に父を偲ばせるのですね。 その感情は、肉親をなくして悲しい、寂しい、そんな単調なものではなかったです。 怒り、恥ずかしさ、軽蔑、申し訳なさ、寂寥感、思い出、全てがごっちゃになってきて複雑なんです。 きれい事ではありません、特に身内の遺品整理、片付けは。 それでも物を片付けていくわけですが、処理というか処置に困る事が多くて、なかなかスッキリとは片付けできません。 中でも面倒なのが母の横やりです。 私が解体処分しようとすると、「ちょっと待て、それ高かった!」とか言い出して口論になるんです。 私は、今後使う可能性がない事、部屋を占拠している不自由さ、過去の価値と現在の価値の違いをそのつど母に話したのですが、簡単には物を整理できません。 私も商売がらリサイクルできる物の価値を少しは知っていますので、何でもむやみに捨てるという行動はしていなかったのですが、 あまりにもゴミを捨てようとしない母にも怒りをずーっと感じていました。 身内が亡くなるといった状況下、母も精神的不安定もあったように見えたので、全てを押し通す事はもちろんできません。 母にとっては、思い出に浸りたいとか、勿体ないとか、なんとなく寂しい、多分そういう次元の話ではなかったのかもしれませんね。 現状を大きく変える心の準備というか、変化に対する不安とか、そういうのが理屈なしで片付けを進められない理由にあったんじゃないかなと思っています。 私としても葬式直後に大きな片付けをするつもりはなかったのですが、どう考えても不便で汚らしいと思ったから、目立たない範囲で片付けをしていたんですがね。 とにかくそれくらいの部屋の状況だったということです。 本当にストレスで、もうこんな作業はしたくないと感じました。 同時に改めて自分が東京で行っているサービスに誇りを感じました。 これも複雑な思いですよ。 更にここで初めて遺品整理をご依頼される方の気持ちを初めて体験したという気もしました。 ただ部屋を片付けるというビジネスライクな考え方よりも、やはり残された人、遺族への思いやりがこの仕事の全てかなと、これも綺麗事抜きで感じました。 でも、サバサバとやるのも仕事ですからね。 ここも複雑な思いですよ。 次回、母屋と繋がった巨大納屋の解体を進めるにあたっての複雑な思い編、続けます。
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